取材記No.006
東日本大震災復旧支援ボランティアに参加しました。(2011.10.19~10.22)
生活クラブは、ホームレス支援全国ネットワーク(ホームレス支援をしている全国ネットワーク団体)、グリーンコープとともに、「東日本大震災被災者支援共同事業体」を立ち上げ、参加団体のそれぞれのネットワークと協力態勢で被災者支援を行っています。今回4日間という短い期間ですが、ボランティアとして受け入れてもらい、10月19日~22日の4日間、ボランティア活動を行いました。
3.11から7か月経って現地に立ってみて、がれきが撤去されており7ヶ月前とはずいぶん異なっているものなのだろうと想像します。しかし、海岸わきの松林がなくなり、そこにあったはずの家が基礎だけになってしまっている情景は、震災のすさまじさを想像するに足るものでした。避難所から仮設住宅へ、そしてその先の自立へと状況が変わる中で必要とされる支援が変わってきており、震災ボランティアというと、「がれき撤去」のイメージですが、今回の内容は、「仮設住宅での冬物衣料頒布会の手伝い」「こたつ布団のサイズ明記」「農地復興のための田んぼのがれき撤去」「事務所内の支援物資の整理」「仮設住宅における「青空市」の手伝い」というものでした。
1日目は、亘理町という仙台から20kmほど南下した町にある宮前仮設住宅での「冬物衣料の頒布会」の手伝い。寄付された冬物衣料とハンガー、ラックなどを運び入れ、展示して3点ずつ選んでもらいます。「自転車に乗る時に寒いからジャケットが欲しい」「おかあちゃんは足が悪くて来られないから代わりにおかあちゃんのコートをもらいに来た」・・・仮設住宅で寒くて不便な生活を強いられている人と服を一緒に選びます。同時に布団やこたつ布団の希望を取ります。仮設住宅では、電化製品とともに、こたつテーブルの支給がありましたが、布団はありません。
ここ亘理は東北で有数のイチゴの産地です。津波によって海岸の松林がなぎ倒され、ハウスも家も流されました。生産を再開するにもゼロからのスタートとなり、本生産まで3年かかるイチゴ栽培は、後継者もいない状況ではとても決心がつかない、とイチゴ農家の斉藤さんは話します。
2日目は、寄付されたコタツ布団のサイズを確認して分かるように表示して詰めなおすという作業。仮設によって、配られたテーブルのサイズが違い、丁度よいサイズのものが求められるため、サイズの表示をすることで配布がスムーズになります。
その後、仙台市若林区の海岸近くで、農地再生のための田んぼのがれき撤去作業に向かいます。ここの田んぼは塩をかぶっているために、すぐには作れないので、田んぼを始めるまでの間、「農地再生」の試みです。協力団体であるJA加美よつばの方がトラクターで30aの田んぼを耕し、そのあとから、スタッフ総出ではいつくばって「田んぼの草取り」ならぬ、「田んぼのがれき拾い」です。ここは一度表土をさらってあるため、あまり大きながれきはありませんでしたが、家の柱や壁、断熱材、ガラスの一部などが、集まりました。ここに、菜の花を蒔こうか、とか加工トマトを作ろうか、など再生に向けた試みが始まります。
3日目は、共同体事務所で、ふとん希望のデータ整理、支援物資の整理などを行いました。
最終日は、福島県新地町の仮設住宅で毎月開催されるようになった「青空市」の手伝いをさせてもらいました。ここは津波の被害も大きく、生活クラブの組合員がいる仮設住宅で、奥和の干物、冷凍イカ、平田牧場の豚肉などの食品やロールペーパー、化粧品などを提供。組合員からの申し出を受けて無料で配布していたところを有料とし、売上は仮設の運営費として寄付する形を取っています。組合員も一緒に市の開催を準備、実行していました。
帰路は、南相馬、飯館村などを通って福島に抜けました。人通りのない町とは何と言う光景なのでしょう!私たちが原発を容認してきたことが、「人が住めなくなった町」を生み出してしまいました。今こそ日本の姿の転換期にしていかなければならないことを痛感しました。
「共同体」が支援している人は、自宅で避難していた「支援の届きにくい人」や、生活クラブの組合員や生産者ですが、それまで点で支援してきたものが、その人のいる仮設全体というように「面」での支援に広がり、地域も石巻や、重茂、岩手県の遠野、陸前高田、南三陸町、福島県新地町など多地域にわたっています。
「共同体」では遠方から来るボランティアのために宿泊施設が用意されており、(仙台市内の共同体事務所から徒歩3分のところにあるアパートで6畳2部屋の2LDK(バス、トイレ、ロフト付き))近くにコンビニもあって滞在に不便はなく、初めての人でもボランティアに入りやすい条件が整っています。
被災された方たちは、これから冬を迎え、雇用も含めた自立に向けていくつものハードルを越えていかなくてはなりません。3.11を風化させることなく、「あの時、何かしたい!」と思ったおおぜいの人が東日本に足を運んで、少しずつでも力を出すことを願い、東北を後にしました。(長谷川)